【金子みすゞとの関わり】
わたしの故郷・山口県長門市は金子みすゞの生まれ
育ったところです。 もちろん子どもの頃はみすゞの存在な
どだれも 知りません。1982年頃、矢崎節夫氏により
発掘されるまで、郷土はこの「みすゞ」という宝石のような才
能を葬り去ったまま放置していたのです。いま、わたしがみ
すゞに関わり続けているのは、そんな自責の念にかられて
いるからでしょう。
■金子みすゞの父親・石津庄之助は青海島・通の石津家
の四男として生まれました。のち仙崎の金子家と養子縁組
み、ミチと結婚しみすゞが誕生しました。その石津家の家
屋は現在は残っていませんが、その跡地はわたしの実家
(弟が現在住んでいます)の四軒隣でした。2006年6月、その
場所に庄之助の生誕地跡の記念碑が建てられました。(参照)
下の地図参照・また詳しくはこちらを参照)。十数年位前、東
京で矢崎節夫氏にお会いした際、みすゞの父親の実家のこ
となど教えていただき、初めて知りました。
父の祖先上利(あがり.)家はその源流を辿ると、戦国時代
この青海島に住みつき(一時、美祢郡へ移住)、大内氏や毛利
氏に仕えました。ここ長門市は武将大内義隆の最期の地です。
義隆が家臣陶晴賢の謀反にあい、この地に落ち延びてきた際、 |
上利和泉らが逃亡のための船を用意するなど便宜をはかった
ため、義隆より千手観音像を授けられたといわれ、その像が現
在も西円寺に遺されています。郷土史に詳しい友人によると、
上利家は平家の落人だそうです。
その上利家の三女上利りんはみすゞの祖母にあたります。
つまりみすゞの父親庄之助の母親です。(下の図参照)
仙崎には現在姉が住んでいます。 金子みすゞ記念館か
ら7分ぐらいの場所です。以前、姉は仙崎小学校などの教
師をしていて、みすゞ関係の情報や資料を送ってくれたりし
ました。
■わたしは大津高校(大津高女と統合)に学び、金子みすゞ
とは同窓生になります。また、みすゞの実家金子文英堂の後
を継いだ木村聖文堂の長男(故)とは大津高校の同級生で
した。
■わたしの叔父・林歌津路は昭和の初期、下関で発行して
いた文芸誌『燭台』の常連で毎号のように詩を載せていた。
みすゞもその雑誌に「日の光」など何編か発表しています
叔父は亡くなりましたが、生前、みすゞのことを聞くと、「よく
覚えている。あの人は書店に勤めていた」と話していました。
( 下方の写真参照)金子みすゞと同じ海を見、潮騒を聞き
同じ風に吹かれた僥倖に感謝しています。 |